共感覚と認知的脱抑制とエンパスの話

今読んでいる本

 

共感覚という神秘的な世界

 

 

共感覚という神秘的な世界-言葉に色を見る人、音楽に虹を見る人

共感覚という神秘的な世界-言葉に色を見る人、音楽に虹を見る人

 

 

 

まだ最初の方だけれど、とてもとても面白い。

この本を書いた著者は文字や数字、曜日などに色がついて見える共感覚だそうで、自分の感覚の説明と科学的説明、共感覚を持っている世界の著名人へのインタビューなどを織り交ぜながらこの本を書いている。

 

 

wwwを開発したサー・ロバート・カイリュー共感覚者なのだそうです。

 

 

 

 

わたしは文字や数字が色に見えることはないのだけれど、人に色を感じたり音や音楽が匂いや味と結びついたり、モノや人に和音を感じたりするからおそらく共感覚者なんだと思う。

人の名前を覚えるのが苦手だけれど、その人の色とか音で覚えることができる。「この人は、タンポポ色の人」「この人は、オーボエ」とか。笑

でもそうすると、人を特定することは出来るんだけど名前や見た目の特徴を言い表せなかったりする。名前と顔の特徴を覚えることがわたしは何よりも苦手。

 

 

 

性犯罪に遭った後、わたしは警察に犯人の特徴を聞かれ、似顔絵を作るソフトの前で彼の顔を再現するように頼まれた。だから自分なりに頑張って思い出して似顔顔を作ってみたのだけれど、その完成度はかなりひどい有様でした。笑 

その似ても似つかない似顔絵はパトカーで巡回中の警官たちにすぐさま共有されて、それを使って犯人探しが行われた。それでもなんとか警察が集めたsuspectsをわたしは後日マジックミラー越しに眺めた。そこでは私はどの人がどういう風に犯人に似てるのか(あるいは似てないのか)を説明しなきゃいけなかったのだけれど、その時も「この人は違う。なぜなら、犯人のかれはもう少し柔らかくて楕円形で、色はオレンジで…」という説明しか出てこなかった。的確に説明できたのは、犯人の洋服の特徴とその色、大体の背格好だけ。酷い有様です。

 

 

でも、大変なこっちゃなのは、私のへんてこな共感覚だけではない。認知的脱抑制という特徴も私の脳はもっているようで、それで周りを驚かせたりする。

 

わたしの頭の中にある記憶は時系列、カテゴリ別にきちんと棚をふられて整理されてない。他人からしたら、いきなり突拍子のないことを言い出すとよく言われるのは、わたしにとってはその前後の話題は頭の中で関連性のあるものとして同時に引っ張られてきてしまうから。

 

文学をやってる時に物理学や生物学のことを思い出したり、まったく脈略のないものを話に持ち出したり、論文に自分の分野ではないものを急に入れ込んできてしまうのもわたしがよくやってしまうこと。そのせいで、専門の教授からは「自分の専門に集中しなさい」と怒られました。(たとえば私の修論なんて、「日本研究」のはずなのに結構な部分でアメリカのハリウッド映画の話とかしてる。)

 

わたしにとって、すべての物事は大きくなったり小さくなったり、人間のように呼吸をしながら脳内をふわふわと漂い続けてる。一つ一つがまさに脳のシナプスみたいなかんじで毛細血管状に繋がってるから、一つが刺激を受けると、遠くにいるべつのものも一緒に反応してしまったりする。ときどき、概念や記憶は居眠りをしているから、反応しないこともあるのだけれど。

 

 

 

 

その上、若干エンパス気味だということまである。エンパスというのは、共感覚の感情版と言ってもいいかもしれない。スピリチュアルな言葉と捕えられがちだけど、全てが全てそうじゃない。感受性豊かと言い換えてもらってもいいのかもしれない。私の場合人の感情や思考なんかに必要以上に共振してしまったり、人の心や身体の状態がわかっちゃう。人はみんな、二つ以上の側面を同時に持ってて、外に出しているのはその中の一つでしかないわけだけど、私には色んなレイヤーのその人が重なっているのが同時に見える。乱視みたいな感じ。

 

 

 

だから例え暴力的な人や非情な人であっても、裏に隠された弱くて悲しい部分が見えてしまってついつい優しくしてしまったりする。そして時々、そこから悲劇が始まるのです。だってね、こういう人たちって他人から本当の意味で優しくされたり大事にされたことがないから、優しくされたり自分に注目してくれる人が現れると嬉しい反面どう受け取っていいかわからなくなるの。嬉しくて、本当は同じように優しさや愛情を返したいのにそれが暴力になったり他人を傷つける行為になったりする。ライオンが、愛情表現で甘噛みしようとしたら相手の腕がなくなっちゃった、みたいな感じ。だから、傷が深くない人だったら大丈夫でも、ひどい人に対しては時々身の危険を感じる。時々「あ、この人は闇が深すぎる人だった。やばいやばい」と思って、ごめんねごめんねって思いながら縁を切ります。笑 

 

相手からしてみたら、私がどういう状況に陥ってるのか全くもって理解できないので急に逃げたり消えたりしてびっくりする。びっくりした後彼らがどうするのかは私は知らないけれど、「変なやつだ」と思うのかもしれない。あるいは、恨みなんかが生まれてしまうのかもしれない。わかんないけど。

 

 

 

 

 

 

共感覚も認知的脱抑制もエンパすも、どれもこれも、まとめて言ってしまえば脳の作りが一般とちょっと違うってこと。ネジが飛んでたり、へんなとこにハマってたりする感じなのかなって思う。でも、それでも私という人間にとってはその配置がベストで、それで上手くいっている。

 

 

 

時代と文化が違えば、多分私は魔女狩りにあってた。

 

魔女狩りにあわなくてよかった。でもその代わり、変人奇人認定は受けます。良い言い方をして、『不思議ちゃん』あるいは、私の形ばかりの学歴と紐づけて『天才』という人もいる。でも、私は決して天才ではない。そこまでの才能はないから。でも、頭いかれてる、精神病、などと言われるよりは天才と言われる方がだいぶマシなので、せめて世間的には天才でいられるようにしようと努力はしてきたつもり。私が学歴をつけたのは、私のような人間が何かしらの『言い訳』を持たないといよいよ社会的に終わってしまうから。(私が高卒とかだったらもう終わる。ニートになって人生終わるw)世渡り上手にいきてるわけでは決してないけど、隔離されたり孤立したり、最低限の生活も営めない状態には追い込まれずに生きていられるだけで幸せ。

 

私の周りにいる、常識人たち養ってくれる人たち、面倒見てくれる人たちに感謝の念しか湧いてこない。(妹に言わせると、私は天才的なヒモらしいです。笑 本当にお金がなくてもなんだかんだで生活できてるし、なんならちゃっかり良いもの食べさせてもらえてたりするから。)

周りの皆様本当にありがとう!!

 

 

 

 

私がこんなんで良かった点は、こんな特性のおかげで自分がやることが前例なしになるケースが多いということ。周りに、私と同じことやる人がいないから、ライバルとかもいないし、競争する必要もあまりない。どっちが上とか下とかないから私にとっては全てがフラットで平等だし、環境や状況、人間関係が上手いことハマれば、私は私のままでいるだけでものすごく感謝されたりする。研究とかはその代表です。

 

よくわからないのだけど、私時々社長さんとかなんかの重役とか、すごい教授とか、そういう人に気に入られたりするの。それで私がしてることって、ただ美味しいご飯もぐもぐ食べて、思いついたこと話してるだけなの。それでみんな『本当にユニークで面白い』って言ってなんか喜んでんの。私からしたら、何が面白いのかわかんないんだけど。私と話すとなんかひらめくらしいよ。なんかわかんないけど、経済を動かす人たちの何かしらの貢献になっているのならそれが私の本望です。多分。

 

 

 

 

ちなみに、こんな感じで私はものをカテゴライズしたり一つにしぼってこまかく見ていくことが出来ないので、このブログも〇〇系とかいうのがうまく定義できない。世のインターネット的には、私のようなブログは分類不可能で集客も出来ない訳です。それでも何故か辿り着く人はたどり着いてて、面白いことにその検索ワードは本当に多様。そのうえ、ものすごく長い文章で検索し来る人とかもいる。

 

よく、山の上にあって選ばれし者しかたどり着けな秘境の地、とかってあるじゃないですか。

 

そんなんが私的には理想です。

 

複雑な道を進んだ先にあるもんだから、一回来たら、来た道と同じルートでは帰れない感じ。

人をわざと混乱させたり困惑させて時には怒らせて、けらけら笑ってる私はときどき自分はあくまかな?と思ったりもします。でも多分悪魔じゃなくて、ただのネジが飛んだヤヴァイ人間です。

 

 

 

私には生きてるうちにやりたいことがいくつかあって、そのうちの一つが、性病のウイルス?細胞?のミクロ画像をパターンデザインにした着物を作ること。それで、最高級の遊女の衣装を作りたい。それを私は研究にもしたいし、論文と作品集を一緒にしたような本を作りたい。

 

それから、色の球体も作りたい。中にはドライアイスの煙みたいのが渦巻いているのだけどそれが色を変えながら循環してて、人が近づくとその人の放つ電磁波?熱?何かしらの作用によって色や煙の形が変わっていくというもの。これを私はgender color spectrumと呼びたい。その中にある色が、その人の性(生)なの。一つだって同じ色はなくて、常に流動的に動き回っているの。そういうもの。オラファー・エリアソンが作った、水蒸気?が満たされている色の光の部屋と少しだけ似てる部分がある。自分の立ち位置によってそれは色を変えて、思わぬところで人と出会ってっていうもの。でも私はそれをどうしても球体でやりたい。私にとって、生/性って球体の形をしているの。

 

 

これは私のやりたいことのほんの一部で、まだまだこれ以外にも沢山あるんだけれど、そのどれもがあらゆる分野を飛び越えて繋ぎ合わされたものばかり。

 

私のやりたい研究というのも、この多様性と異世界の同時多発性、流動性そのものを扱ったものだったりする。ジェンダー的な言葉を使ってとりあえずはそれをクィアと呼ぶけれど、別に呼び名はクィアじゃなくたっていいの。テレポーテーションとかでもいいよ。

 

私のなかにあるこの概念を、人を混乱させすぎることなくやっとの事で言葉にすることができたなら私は多分満足するのだろうと思います。

 

それまではどれだけ書いても、どれだけ説明しても、きっと満足することはない。

 

ブログだけじゃなくて、毎日ものすごい量の文章書いててもだめだから、もしかしたらこれは死ぬま続くのかも知れません、。

 

それはそれできっと楽しい。

 

そう思うことにします。

 

 

 

終わり。