Tears in heaven

急に「泣くこと」について書きたくなった。

 

そしたら、エリッククラプトンのTears in Heavenを思い出した。

 

youtu.be

 

この曲を最初に聴いた時のことを今でも覚えてる。

 

家族で車に乗って、祖父母の家へと向かってる途中の車で聴いていたラジオでかかったの。初めて聴いた時に「この曲、好き!」と思って、その場で曲名とかを脳内インプットした。それ以来、時々無性に聴きたくなっては繰り返し聴いた曲。

 

何回聴いたかなぁ。

 

これは私の想像というか、感じただけだから本当のことはわからないけれど

エリッククラプトンはこの曲を書きながら、自分も涙を流してたんじゃないかなぁ。

 

泣くほどに自分の心を震わせながら作ったものってパワーがある。

 

 

泣くことって、ものすごい尊いことだなぁって私は良く思います。

感情が揺さぶられて、涙が出てくるほどに心が動いてる証拠だから。

それは時々、自分が自分に出している「危険信号」の合図だったりもするし

その瞬間に生まれた何かしらの繋がりに感動して心が喜んでいる涙だったりする。

 

最初は悔し涙だったのが、少しずつグズグズしていたものが洗い流されていって

最後には希望の光のような涙になっていたりもする。

 

私は時々、自分の感情じゃなくて誰か別の人の感情みたいなものを拾ってしまって

それに反応して泣いてしまうこともある。

泣きたくても泣けない人の代わりに泣いたりとか。

 

それから、その時の状況を一歩先の段階に押し出す時もある。

 

延々泣いて空気が気まずくなるとか人が優しくなるとか、そういう意味ではなくて

自分や誰かが泣き始めてその時間を一緒に共有した瞬間に

その人との関係性が急に変わったりするの。

離れていく合図である時もあるし、深いつながりを感じる時もある。

 

ほんの少しの間の出来事なのに、それが起こる前と後では

何かが大きく違ってるという感覚。

 

それはもしかしたら、これから起こることを無意識のうちに先取りしてるのかもしれない。悲しいの涙と、嬉しいの涙。

泣いてしまう瞬間は、自分がどうして泣いてしまうのかわからなかったりする。

 

昔どこかで読んだ話。

 

確か、江戸時代か明治かそこらの歌舞伎役者が女形について(女らしさ)についてを説いてる内容の文章だったと思います。あるいは、三島由紀夫の何かの本だったかしら?

 

詳しくは覚えてないのだけれど、その女形の人がこんなことを書いていた。

 

女の人(女性的な人)は悲しいから泣くんじゃなくて、意味もわからず泣き始めて、だんだんと自分の感情を理解していくものだから、女形としてその反応の順番も気をつけている・・・と。(確か)

 

私は男性ではないし、感情に対して男性的な感性を持っているわけではないので、それが女性特有のものなのかはわかりません。でも、私の中にある感覚としては「ただ、泣きたいからなく。それだけ」という感じ。

 

感情には、最初は理由がついてない。それは急に訪れて、私はただそれに身をまかせる。そうやって揺れ動く感情を抑え込まずに味わっていると、何か大切な言葉がそこから降ってきたり、新しい気づきが生まれたりする。そうやって、私は私の感情とか思考とか、周りのこととか、いろんなことを理解していく。

 

私はこれでも大学院を出ていて、理系的なこととか分析とかも大好きなので時々知識ばっかり詰め込んだ頭でっかちと思われたりすることもあるんだけれど、蓋を開けてみたら結構逆だったりする。私はもともと知識らしい知識はないし、常識とかそういうものも持ち合わせてない(残念ながら)

「これを極めるためには、まずこれを知らなきゃね」みたいな、セオリーとか基礎知識とかいうものから何かを学び始めることもあんまりない。その代わりに、自分の中に浮かんできた感情とか言葉とか感覚とか、そういうものを見つけて「これってなんだろう?」って思うところから始まる。あるいは、ぼーっとしている時とかに急に飛び込んできたもの(それは音楽とか文学とか、人との出会いとか)に一瞬のうちに恋に落ちてしまって深く心に刻み込まれてそういうものが私の心の中にはバラバラと点在しているのだけれど、ある日突然それらが何かのタイミングで急に繋がったりするの。そういう時にまず感情が現れて、そこから少しずつ言葉になったり知識になっていったりする。

 

 

今はまだ、うまく説明できる段階ではないと思うのだけど

それを無理やり言葉にしてみたらこんなことになってしまった。

 

うまく言葉が出てこない。

 

でも、そこにある「繋がった」「離れた」という感覚は私にとっては何よりも確かなもので、目に見える証拠よりも明白な事実よりも信ずべきものだったりする。

 

例えば、誰かと深いつながりを感じたその一瞬に私の全身に(静電気とはまた違う感じの)電気が流れるような感覚を覚える時がある。あるいはそれは、オーケストラの調弦がぴったりとあった瞬間のすっきり感だったり、部屋の窓をいっぱいに開けて淀んだ空気が新鮮な空気に入れ替わったような感じだったりする。

 

 

今の私の一番の疑問は、私が誰かと一緒にいる時にその感覚を覚えたとして

その相手の人もおんなじ感覚を共有しているのかということ。

 

確かに相手も何かしらを感じてるなってわかる時もある。わからない時もある。

そしてそれはどんな時でも、相手と私の感覚が全く同じかどうかということまではわからない。本当はわからなくてもいいことなのかもしれないけれど。

 

それから、何かを誰かと共有した時、それが第三者の目にはどう映るんだろう?

そんなことも私の知りたいことだったりする。

 

その感覚を、第三者の人は共有してない。だからもしかしたら、何かしらの根本的ものが伝わらなかったりするのかもしれない。

 

ベンヤミンが言っている『アウラ』とかって、もしかしたら自分と相手(あるいは作品)との一対一のつながりの瞬間をさしているのかもしれません。

そしてそれは、マルティン・ブーバーが言ってるI-Thou-Relationshipとも通じる。

 

 

 

ちなみに今日は、ナタリーポートマンとリリーローズデップが姉妹役で主演している映画『プラネタリウム』をみてきた。

 

 

youtu.be

 

この映画でも、見えるものと見えないもの、共有できるのかできないのか、見せるのか見るのか・・・そういうことを考えた。

 

私はケイトのことは痛いほど共感するけどローラのことは共感できない。

 

 

 

 

とりあえず、今最後に言いたいことは

 

泣きたい時に、泣けばいいよ。

 

 それだけ。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

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