それでも、続けるということ

今日は仕事がお休みだったので、ル・コルビュジエとアイリーン・グレイの映画をみて、そのあとにオットー・ネーベル展に行った。

 

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アイリーングレイは、前に一度作品集を見た時にふと気になって、私の心の中にずっと留まってた人。オットー・ネーベル展は通勤の電車のなかで広告を見て彼の絵に一目惚れして、時間があったら行こうと思ってたの。

 

 

 

映画は面白いくらいに淡々と流れていった。コルビュジエのなんだかよくわからない問わず語りも私は冷めた目で見つめていたのだけど、最後の最後、エンドロールが流れ始めたところで何かがずしんとこころに落ちてきた。出来立てのE.1027のリビングで、揺れるカーテンの間で風にのっておどる焦点の合わないグレイの影がぼんやりとうつされる。どこからがカーテンで、どこからが家で、どこからが彼女で、どこからが風なのかがわからなくなるくらい一緒になってるの。

 

映画の中で、アイリーングレイは「作るのは好きだけど、所有するのは好きじゃない」というようなことを言う。それから、「物の価値は、創造に込められた愛の深さで決まる」という言葉も。ストーリーを通して恋人やコルビュジエの言動に何度も言葉を失い静かに心を閉ざしていきながらも静かに自分を生き続けるグレイを見ていて、私がどうして彼女や彼女の作品に惹かれたのかがわかった気がした。

 

 

 

 

例えば、何か創造的なことで成功したいと思ったら(あるいは単純にビジネスでも恋愛でも構わない)、人はよく「アピールしなさいよ」と言う。多くの人から注目を浴びて、声高に主張し、自分の存在を世に知らしめる。成功するためには認められなきゃ行けなくて、普遍的でなくてはいけなくて、そのために頑強な志を持って自分の主張を通し続ける。それが成功には必要なことだよ、と。

 

 

でも、そうすることで失ってしまうものがたくさんあると私はどこかで感じてる。人に倣ってそうする度に自分で自分を傷つけてる感覚。そうやって強くいようとすればするほど、全てとの繋がりが感じられなくなって自分を見失ってしまう。全てが分断されて、あたたかさもやさしさも尊い知恵もない不粋な世界になってしまうような気がする。

 

多くの人が余分だとか足りないだとかあれこれ言う中に、本当はたくさんのものが詰まっててそれを一緒くたにしてまとめようとした瞬間にそれまで生きていた色んなものが死んでいく。それは例えば、特別な日にみた特別な瞬間の色彩だったりする。名前を与えることすらできない何か。

 

言葉でも絵でも一つ一つの行動でも、誰かに無下に扱われてしまったり無慈悲に形を変えられてしまったりするのを見ると、私は涙が出るほどかなしくなる。それは自分のことだけでなく、人のものに関しても。本人は良かれと思ってやってるのかもしれない。それはそれで、形の違った思いやりなのかもしれない。でもそれが私には、可能性という空白と自由意志を壊してしまう行為に映る。

 

自由にたゆたうための空気が抜かれてしまうくらいなら、私は自分の持ってるものも感じてるものも外には出さずそっと隠しておく方がいいなって思ってしまう。外に出すほど、強くない。そんなものをそのままの形で残したい。

 

時々、私は弱くて繊細で潔癖すぎるのかも、と思ったりする。

 

 

 

一人でいるのはとても落ち着く。それから、自分に似ている数人の友人。どこまでも安全な世界。だけどしばらくするとその空間では抑えきれないくらいにたくさんのものが溢れ出てきて、外に出ていかないと行けない時が来る。

 

結局私は創造を辞めることは出来なくて、それは誰か(何か)に対する想いや愛情のようなものによって生まれてくる。だから時々とても個人的かつ主観的。

 

そこに苦しみが生まれるとするなら、それは贈った相手に受け取ってほしい、理解して欲しいという独りよがりな期待によるものなのかもしれない。だから、誰かのためでありながらも、あくまで見返りを求めずに淡々と作業に打ち込むのが一番なのかもしれない。

 

 

芸術は問いかける。語りかける。でも、見返りは求めない。

 

 

今から4年前、ニューヨークを旅行した時に私はMomaに行った。そこで初めてパウルクレーを知った。彼のことも、彼の人生も生まれた時代もなにもかも、その時はまだ知らなかったけど、私は1枚の彼の絵に釘付けになってそこから動けなくなってしまう。その日から、私はパウルクレーという言葉をきくと、なんとなく気になるようになった。

 

オットーネーベルはそんなクレーを尊敬していて親交も深かった人。今回も、一瞬のうちの一目惚れから始まった。前知識は何もなし。でも、今まで私の中で繋がってなかった色々なことが、ひとつの芸術家をきっかけに繋がってゆく。

 

彼ら二人は、戦争が本格化して彼らの芸術が社会から否定されるようになっても、お互い支えあいながら自分達の世界と芸術に向き合い続けてた。

 

周りがどんな状況であっても、何を言われても、静かに淡々と自分のスタイルを追求して、自分の内側に集中することも、それはそれで強さなんだなと思った。それは、外へ外へと主張していく頑強な強さとはまた違うけれど、何をされても壊れることのない、でも形を変えながら常に存在しつづける空気のような強さなのかなと思いました。目には見えないし形もないけも、無かったらそもそも私達は存在できない。そんな強さ。

 

これから少しずつ、まずは一番近くにいる自分自身のために集中してみようと決めた。そこで生まれたものはもしかしたら誰にも見せることなく終わるかもしれないけれど、できあがったら満足して捨ててしまうかもしれないけれど(私は所有ができない人間だから)、とりあえず流れをせき止めないためにも。

 

 

P.S. ブログの内容とは直接関わり合いはないけれど、アイリーングレイとジャンバドヴィッチがフランス語と英語を交えて話すのが、どこか懐かしかった。

バイリンガル同士はもちろんのこと、私は時々、日本語を喋れない友達に日本語で語りかけたりするし、その逆をすることもある。それは、伝えたいことがどうしてもうまく翻訳できない時。それから、どちらかの言葉で伝えたい時。不思議なことに、それでも言葉は伝わる。だから私は言語信者だけれど、言語信者じゃない・・・そんなことを映画を見ながら考えたりもした。

それから、邦題は『ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ』だけれども原題はThe Price of Desire。It's ironical enough that the translated title itself indicates what Le Corbusier did to her.