言葉を喋れる人が好き

「言葉を喋れるなんて当たり前じゃないか…!」と言われそうですけれど、人の話ってよくよく聞いているときちんとした言葉で意味の通ったことを話せてる人って本当に少ないんですよ。

    

会話においては多少は崩れたりニュアンスだけで話すのも大丈夫なんですが、度が過ぎてしまうとじつは会話しているように見えてお互いが独りよがりの問わず語りになってしまう。

      

 

    

さっきTwitterでこんなものが流れてきたので読んでました。

 

http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/249856

 

これを読んでて、思わずうんうんと頷いてしまったの。

 

もしかしたらこれは現代に限ったことではないのかもしれないし、決して若者だけではないので一概に「最近の若者は…」というつもりはありません。でも、ここにかいてある「キーワードをピックアップしてるだけなので文章の読解力はない」という部分、読んだ瞬間に思い当たる人の顔が次々に浮かんできたのも事実。

    

私はもと言語教師&文学の研究をしてた院生というのもあって、文法や文章の構成などには多分すぐに気づいてしまうから余計に。私が文章を通してAという意味で説明をしても、その中にあるBという単語だけをピックアップして私の言ったことをBと理解してしまう。AとBは全く別の意味(下手したら正反対の意味)の場合もよくあるので、これではとても困ってしまいます。ただ単に相手に誤解されるだけならまだいいのですが、それで相手がBとして他人に言いふらしてしまった時にはもう大変です。

     

     

私はBとは意味してないものをかってに「あの人がこう言ってたよ」と言われてしまうから。

         

      

しかもそういう人に限って言葉が足りないので、全体の文章の中から自分がピックアップしたのがBだけ、というニュアンスは込めずに私が最初からBのみを言ったことになってしまう。細かいニュアンスのちがいは全て無視されてしまいます。あるいは、下手なほうこうに拡大解釈されてしまいます。

    

これは人間が主観でものを見ていきてる限りある程度は仕方の無いことなのかもしれない。でも、日本語は主語や目的語、時制などの文法構造上、もともとの発言者とそれを聞き伝える人の境界線か緩くなりがち。

      

だから、日本語で誰かが他人のことを伝えたじてんで既にそれは本人像から大きく外れていることが多い。

     

    

それってとっても困ります。

     

日本って、発言であっても仕事であっても責任の所在が曖昧になることがおおい。どこからが自分でどこからが他人なのかの境界線が薄い人が多い。だからいざとなった時にすべてが共倒れしていくような感覚がある。それが少しだけ、苦手です。

    

 

わたしが個人的に「この人好きだな」と思う人は、話し方がしっかりとしているひと。ハキハキと喋るとか、声が大きいとかそういう問題ではなくて、話していることを文字に起こしてみた時にきちんと文章として意味の通る話し方をする人。そして言葉を丁寧に使い分けて話す人。

 

 

とても面白いことなのですが、そういう話し方をする人ってバイリンガルだったり、国際的な文化背景を持つ人が多いです。もしかしたら、日本語単体ではそういう話し方にはならないのかもしれない、私は日本語ではない日本語が好きなのかもしれない。ふとそんなことを思いました。

 

 

【追記】

おそらくですが「察する」「キーワードだけで意思疎通をはかる」というのはお互いがそれぞれ共通認識として同じ知識を持っている必要があります。日本の和歌なんて言うのはその最たるものですが、和歌があれだけの文字数で大きなふくみを持たせることが出来たのは当時の和歌を詠む階級の人はみんな昔からの和歌を勉強して殆どを暗記していたからに他なりません。たから多分、同じ教育を受けていなかった一般の人に和歌を言っても何ひとつ理解できなかったんじゃないかな。言語としての理解は出来るけど、それが意味することがわからない。

      

今の世の中って、前提となる共通知識のすり合わせと学習がないままに「本歌取り」の慣習だけ残ってしまった結果なんじゃないかなぁ。だからみんなたくさん話してコミュニケーションしてるようにみえてどんどん独りよがりになっていく。広がっていってるようにみえてどんどん見える世界が狭くなるインターネットの世界と通じるところがありそうです。