文化的人間が犯せる最大の罪は「無知」「無自覚」だと思う

最近考えていること。

 

人は自分の自覚なしに、時々ものすごく残虐なことをやったりする。

例えば、差別。自分が差別していると自覚していて意識的にやっているのなら(性根は相当悪いが)まだいい。「それはやってはダメだと思う」と言えば本人もすぐになんのことか分かるし、本質の問題を話すにおいて少なくともコンセンサスは取れるから。

人が無自覚のうちに差別であったり道を逸れた何かしらの言動をした時、たとえそれを指摘したとしても「なんのこと?」とぽかんとされたり、「考えすぎだよ」「そんなことしてないよ」とその言動そのものの存在が認めてもらえない。それはある意味ではしょうがないことなのかもしれません。

 

 

例えば、1から10まで知っている人が10について指摘したとしても、1から5までしか知らなくて10の存在すら認識していない人は相手がなんのことを言っているのかすらも皆目検討がつかない。自分の理解の範疇外のことを急に言い出すもんだから、指摘した人は頭のおかしいやつか考えすぎ、屁理屈・・・色々な理由をつけて自分がそれを理解すらできない理由を適当に当てはめる。

自分の分からないものに対しての判断の保留ができない人はそうなりがちです。判断の保留というのは、自分にとって全く分からない未知の情報が入ってきた時に一旦それが何であるのかというジャッジメントをするのをやめるという判断です。判断しないという判断。これは確か内田樹の本で、誰かの引用か何かで書いてあったけど、人間が機械でも動物でもなく人間たらしめるポテンシャルの一つとして、この「判断の保留」があるそうです。それは確かにそうだなぁと私も思う。判断の保留をすることで、物事の全体像を把握するだけの時間とより多くの情報を得ることが可能になります。そして様々なデータを集めた中で、多角的に物事を見て見た結果として、自分で自分なりの答えがやっと出せる。時々、どんなに理解しようと努めても分かることのできないこともままあるけれど、そういうものを含めて、知りたいと思うことが人間の正常な機能であり健常な思考回路なんだと思う。本来は。

 

これこれ

 

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 

 

 

だって、より多くのことを知っていた方が自分が今いる世界がどんなものなのかを理解できる。自分の世界をよりよく理解することができたら、その世界を自分がよくしていくことだってできるし、自分にとって住みよい場所を見つけることだってできるようになる。それがどうしてだか、そういう努力を放棄してしまう人が多いようです。

 

私は、学ぶことの放棄とか、他者や社会、世界のことを知ろうとすることの放棄は、自らの幸せを放棄することなんじゃないかなって思う。思考停止をしている人たちを見ていると、「この人たちはなんのために生きてるんだろう?」「生きてて本当に楽しいのかな?」と思う。私は、辛いことも悔しいことも悲しいこともたくさんあるけれど、それでも根源的な「生きる」という部分では人生を全うしているし、幸せを感じているなって思うから。どうして、自らの感情を味わうことをしないんだろう?そこから何かを学び取らないんだろう?どうして他者を理解しようとせず、一人一人違うはずの価値観や視点の違いをお互いに学び合おうとはしないのだろう?

 

私は彼らではないので、本当のことはわかりません。どんなにわかろうとしても、分からないことの一つ。でも、一つだけ思うことは、彼らはきっと何かにとても怯えているのだろうなぁということ。怖いのだろうなぁということ。多分それは、一度考えて、学んで、自分の立ち位置を見ようとすることをしてしまうと、自分のちっぽけさがわかってしまうからかもしれない。自分が自分で自分なりの答えを見つけたりする責任を持ちたくはないのかもしれない。何より、自分のすぐそばにいる誰かでさえ、よくよく知っていけば自分とは全く違う人間で違う思考回路を持っていて、本質では分かり合えない部分があるという事実に直面するのが怖いのかもしれない。それは、孤独に対する恐怖心なのだろうと思う。なんでもいいけれど、とにかくあれにもこれにも怖がっているのだと思う。怖いから、歩くのをやめてしまうし目をつぶって丸くなってしまう。

 

そして、どこからともなく与えられた「価値観」を鵜呑みにして、それに従うことで「とりあえずこの流れに乗っておけば、人とはぐれることはないだろう。私は一人にはならないだろう」と思っているのかもしれない。それが排他的で偏重的な価値観で、それを支持することによって少なくない人の存在価値を全面的に否定することになろうとも、なんとなくその流れに乗ってしまうのだろうと思う。結局全ては甘えなのだけど。自分の発言に自分で責任持てないのなら、最初から言葉なんて話さなければいいのに。「みんながやってるから」というロジックの破綻したロジックを使うのなら、それを他人に強要しなければいいのに。そして、それを無自覚で行なっていることが、最大の罪であり、人間として本当ならば決してやってはいけないことなんじゃないかなって思います。

 

 

もちろん、完璧な人間なんていないから、全ての人がどこかしらでこの罪を犯してしまってる。それは私自身も含めて。私はきっと私の知らないところでたくさんの人を傷つけていると思うし、それによって彼らが生きる希望を無くしてしまうくらいのことはしているのかもしれない。でも、自分もそういうことをしている可能性があるということをいつも頭の片隅に置きながら、なるべくはそういうことをしないように学んだり、言葉を選んだり、相手の存在を重んじたりすることだったらできる。

 

多分、多くの人からみたら私がどうしてそんなにこのことにこだわるのか分からないだろうと思います。そんな、他人のことなんてほっときゃいいのにと言われたりもします。「無知」な人は無知なだけ。それをさらっと流して適当に付き合えばいいじゃないって。私はここら辺がものすごく不器用なんだろうなって自分でも思う。誰かの「無知」によってその人が私ではない第三者を無自覚に傷つけた時、もしかしたら私は過剰に反応しすぎなのかもしれない。

 

でもそれはきっと、一度でも傷つけられた側になった人ならなんとなくでも分かることなんじゃないかなぁって思う。結局、人が他人を考えなしに傷つけることができてしまうのは、自分が同じ経験をしたことがないからに他ならない。

 

自分が純粋に人のことを好きになるだけで「気持ち悪い」とか笑われたり、ひどい時には命の危険にさらされたことのない人は、セクシャルマイノリティーの人たちがどうしてあれだけ差別的な発言や態度に怒って行動を起こすのかが分からないと思う。

自分が見た目だけで差別されたことのない人は、人を見た目で判断して差別することに大した抵抗を感じないだろうと思う。見た目という情報だけで、自分自身の本来の性質とは全く異なるものを「これがあなたですよ」と勝手に相手から押し付けられて、嫌な思いをしない人がどこにいるのだろう。

命の危険を感じるほどに怖い経験をしたことがない人は、言葉であれ精神的なものであれ、暴力を振るってくる人に対して「抵抗すれば?」「それは抵抗できないあなたが弱いんでしょ?」といとも簡単に言ってのける。

そういう少しずつの積み重ねて、人って簡単に死んでしまうし病んでしまったりする。

 

そして「無知」な人たちはそういう人たちを「弱い人たち」で片付けてしまったりする。

 

「弱者」って無知な人たちが勝手に判断した弱さでしょう?本当は「弱い」と言われる人たちの方が強かったりする。自分の努力だけではどうにもできないことでとやかく言われて傷ついて、それでも生きることを選択したり自分にとって生きやすいところを探とうと努力したりしている人もとっても多い。もちろん、弱者である自分を甘んじて受け入れて、その流れの中で甘えながら生きる人もたくさんたくさんいるのだけれど。

 

 

本当はわかってなんかいないのに、わかったふりをしているだけの人たち。「人が言うから」とそれを支持して本質も掴めていないのにわかった風の物言いをする人たち。そう言う人たちは、口ではあれこれ得意げに知識を披露したりするけれど、本当になんでもないところで無下に失言をしてしまったり、わかっていない行動をしたりするから、口先だけの言葉の薄っぺらさがさらに強調されてしまう。

 

面白いことに、何もわかっていない人に限って、私はわかっていると大口を叩きます。

お前がわかってないと、他人を批判したりします。相手のことを本当の意味では何一つ思いやってない人に限って、わざわざ「私はあなたのためを思って言ってるんだよ」と言います。「私はこんなことしないよ」と言う人に限って、そんなことをします。

 

そしてそれを本人たちは自覚していないことも多い。と言うか、本人的には自分は本当に本心から言っていると思っていたりする。全然そんなことないのに。もしかしたら、無意識の奥の奥の方では自分でもわかってるのかもしれないね。自分自身が表面だけの薄っぺらな存在だって言うことを。だから、自分を取り繕うために慰めの言葉として、そう言うことを言うのかもしれない。

 

 

私はそう言う人たちを信用しません。というか、信用するとかしないとか以前にそばにいたいと思えない。だって彼らは自分の足で立つこともできなくてグラグラ揺れてぶつかってきては私に対しても同じように振舞うことを期待してくるからです。誰一人自分の足で立とうとしない満員電車のようですね。(でも、悲しいことにこう言う人たちが世の中のマジョリティなわけです。だからこそ「みんなこうしてるよ」「普通はこうだよ」って言う言い訳が成立するわけです)

 

魚とか鳥って群れで綺麗にまとまって群れで動くでしょ?綺麗な三角形とか丸とかを描きながら、移動していくでしょ?あれって、よっぽど複雑な生命の叡智があるかと思いきや、実はものすごく単純な原理から起こっていることがわかったんですって。それは、後ろの動物が自分の目の前の動物の動きを真似て何も考えずにそのままコピーする・・・と言うことを全ての個体が行うから規則正しい群れになるんですって。自分が見て認識して自分も同じように動くまでに多少のタイムラグがあるから、形が少しずれて先頭の個体を中心に扇型に広がっていく形になる。でも、そのタイムラグにはそこまで個人差はないから、広がり方が均一になって全体として見た時に綺麗な形になっている。ここでのポイントは、自分の意識とか「考え」が介入する隙がどこにもないと言うこと。彼らは自分の目の前にいるものをそのままコピーすると言うことが本能として刻み込まれていて、それをやっているだけなのだと言うこと。それが、彼らにとっては生存活動を維持するために最大の利益になる生き方で、そこから逸れてしまうと言うことは死を意味していると言うことだから。

 

(↓これに書いてあった) 

The Perfect Swarm: The Science of Complexity in Everyday Life (English Edition)

The Perfect Swarm: The Science of Complexity in Everyday Life (English Edition)

 

 

 

それを、人間も同じようにしているのだとしたら、人間も動物でしか無くなってしまう。でも、一つだけ違うのは、動物は考えることもしないしそのぶん下手な邪念もないと言うこと。人間は、個人差はあれど、考えると言うオプションが付いている。それはどう言うことかと言ったら、動物と同じようにやろうとしても結局はうまくは行かないと言うこと。たとえ自分の意思や考えを無視してただ周りに合わせようとしても、きっと完全にはそれをすることはできないし、それにそもそもその流れを作り出した人たちが何を考えて源流を作ったのかを知らないまま従ってしまったら、気づいた時には取り返しのつかないところまで連れて行かれてしまったりする。確かに私たちは全くの孤独では生きてはいけないだろうけど、それでも常に群れで行動しないと生きていけないような生物なわけでもない。一人で行動ができる個体だからこそ、下手に群れてしまうことが逆に不利益を被るし、下手したら大変な過ちになってしまうこともある。

 

直感と感性に従って、考えすぎずに生きていくことも大事だよ。思ったことは思ったままに言うことも大事。だけど、それだけではダメ。自ら経験して、勉強して学んだことっていうのは積み重ねれば積み重ねるほど自分の中の「当たり前」として蓄積されて行って、自分の無意識として出てくるようになる。言語を一生懸命学んでバイリンガルになった人は、最初言葉を勉強してる段階では意味をいちいち母語に変換したり考えたりしながら時間をかけてやっていたのがそれを積み重ねることで、頭で考えなくても勝手に出てくるようになっていく感覚が分かるんじゃないかなと思う。

学ぶことも同じ。人のことを知ることも、他者や社会を理解して多様な価値観を認識・受容することもおんなじこと。

別に、知るということ、存在を認識するということは自分もそれを採用してそれに乗っ取って行動しなきゃいけないってことではない。だって、それは姿を変えた思考停止でしかないから。大切なのは、人の数だけ価値観やものの見方、性質などが違っているということをまず認識して、それが自分自身のそれとどう違うのかを理解すること。理解した上で、「それを踏まえた上で自分はどうしたいのか」を自分で考えて自分で決めて、行動すること。流れに乗ってもいいけれど、「どの」流れに乗るのかを自分で考えて決めること。そしてそれに責任を持つこと。それに尽きるのではないかなと思います。だって選択肢は一つじゃないよ。

 

こういうことを、どれだけ自分で意識してやろうとしているのか。たとえ怖くてもなんでも。そこで人の人間性って見えてくるなぁって思います。多分、それを放棄するってことは、人間として生きるってことを放棄するってことに繋がってしまうのではないかなぁって思う。

 

あなたは人間ですか?

 

 

 

【参考文献】

↑ 今だからこそ、読んでおく必要がある一冊。これは本当に必読書。