どういう人たちと付き合いたいのか。どんな自分でいたいのか。

今日、家に帰ってきて録画してからずっと保存してたサワコの朝を見た。

五嶋龍が出ているやつ。五嶋龍は小学生の頃からずっと好きで、辛い時とか自信を無くした時とか、頑張らなくちゃいけない時にだいぶお世話になってきました。彼の音楽と、言葉と、存在そのものが私を安心させてくれて前向きな気持ちで頑張ろうって思える。だいぶ昔の話、彼が毎朝早朝に起きて学校の宿題をやってから登校、放課後はずっとバイオリンをやっている姿を見て「私もこんなことではあかん!もっと頑張らねば!」と思って早朝勉強法をパクリ朝は「やりたくないけどやらなきゃいけない勉強」、放課後は「好きな勉強」をしていました(元来勉強が趣味のガリ勉なので、起きても勉強、寝ても勉強、です。笑)おかげさまで、自分の心の拠り所の研究において、それが「趣味」ではないレベルにまで達したのでした。(でもそれまでに何度泣いたかしれませんし、まだまだ道のりの途中です。多分、死ぬまで。)

 

 

私のような人間は、みんなと同じようなことをそこそこにやることができません。とことん、自分の好きなことしかできないくらいには不器用で生きづらい人間です。でも、その「好き」さえも、ただ「好き」の範疇を超えない程度の量しかやっていなければそれは趣味からは抜け出せない。それ以上になるためにはいつだって、好きが好きじゃなくなるほどの努力をしなくちゃいけない。でもそれが、めぐりめぐって、もっと大きな意味での「よろこび」に繋がっていく。好きは、好き、だけじゃ大したことない。

 

言葉って不便だなぁって思うのは、こういう時です。「好き」「嫌い」の次元を一つ超えたところにあるもう一段階上の「好き」あるいは「よろこび」。これを表現するのに、おんなじ「好き」を使わなくちゃいけないのは、なんだかしっくりこないなぁ。だから私は自分にとっての「好き」や「嫌い」やその他諸々の言葉の意味がどういうものなのかを、いちいち説明してゆくわけです。そうしないと、人と想いが食い違ってしまうから。

 

でも例えば、私の意味するところの「好き」と同じ密度と容量の「好き」を発する人がいたとして、そうしたら私は一気に安心する。こんな回りくどい説明も必要ないし、相手がどういうことを考えながらどういう意図で言葉を選んでいるのかということをわざわざ先回りして考える必要もない。それってとっても楽なことで、とっても安心感がある。そういう人が、私は好きです。

 

こんなに文章をたくさん書いていて、なんでもかんでも説明していて、おまけに論文まで書くような人間が、一番望むものって「言葉が要らない」人間関係なんです。なんとまぁ、controvertialなんでしょうと思います、自分でも。おんなじだけの経験と、何かを考えた経験と、それによって得た自分なりの答えがあるからこそ、経緯を話さずとも「結果」としての「言葉」をポンっと発するだけでお互いにコンセンサスを取ることができる。

 

私にとって、例えば五嶋龍の言葉を聞いていて、「あ、私と似たこと考えているんだなぁ」って思うのでとても安心する。もちろん、私は彼のように活躍はしていないし、それを私は望んでいるわけではない。私は私のやり方で、私のやりたいこと、やるべきことを淡々とこなしていくだけのことなので。そしてそれは、「好き」とか「嫌い」とかいうレベルではなくて、「しょうがないけど、やるしかないのかなぁ」っていう一種の絶望と諦めと「自分以外にこれができる人なんていない」という自信が混ざった「好き」なのだと思います。ここで私がいう本当の意味での「好き」を目の前にした時、人はとてつもない恐怖感を抱くものだし、ある意味での嫌悪感すら覚える。緊張して、自信を失って、「いやだいやだ、楽がしたいよ」って泣き叫ぶんだけど、とことん泣き尽くした後に、もう何も出るものがなくなったその瞬間に「あ、やっぱり行かなきゃいけないんだな」と思うような、そんな感じ。そこまでの境地を一度でも経験したことのある人は、強い人。私はそう思ってる。だから、五嶋龍も私にとっては強い人なの。私は、そういう意味での強い人が好き。弱々しくても、どこまでも強い。そんな人。

 

私は私の中に、もうすでにこれから歩んでいく道筋が見えている。私の生き方、やり方は側からみると意味不明に見えることが多いみたいです。私の言動が理解できない人も多いし、ただの飽きっぽい人とか社会不適合者とか、そういう目で見られることも少なくない。それは子供の頃からの話なので、私はもう慣れっこです。「どうしてあんたみたいなやつがこんなところにいんの?」という目で見られたことが、何度もなんどもあるから。それでも自分のやっていることを信じて「これでいい。この道で正しい」と思えるためには、周りの全ての人が自分を否定したとしてもそれでも自分を信じられる強さが必要なのかもしれない。特に、大して真剣に物事を考えていない人や言い訳だらけの人に限って、人のことをとやかく言ったりするからね。きちんと冷静になって、その上で独りよがりではない、負け惜しみでもない、強さと正しさを持ち続けることがきっと大切だし、それって何よりも難しいことなのだと思う。

 

さっき、ぼんやりと考え事をして歩いていた時に、ふと気づいたことがあるんです。それは、人のことを相手を主語にしてとやかく言ったり、人の存在価値を軽んじる言動を平気でする人というのは、その分小さな世界に住んでいるのだなぁということ。自分が「弱者」「マイノリティー」になることがない小さな世界の中で生きている限り、その人は強くいられる。どんだけ頑張っても、どうにもならないほどの報われなさを感じたことがないのか、あるいは目を背けているだけなのか・・・そういう人に限って「努力すればいいんだよ」「それはお前の努力が足りないんだ」「人と同じにできないお前が悪いんだ」などとこぼしたりする。自分がどれだけ頑張っても、必死になって自分を見失うほどに無理をしても現実がちっとも動かない経験を、もしかしたらしたことがないのかもしれないね。

 

要は、どこの世界を自分の基準にしたいかなのだと思います。自分自身のスタンダードをどこに持っていくか。小さい世界で大きく振る舞いたいのか、大きな世界で弱々しくもがきながらも自由に生きてゆきたいのか。そしてもちろん、自由には責任が伴う。

 

そろそろ自分自身の責任は自分で取ろうと腹をくくってしまえばどうですか。

あなたが見ている世界はあなたそのものを反映させたものでしかない。

自分のいる環境に満足ができないのなら、それを他人を批判することでなんとか保っているだけなのなら、さっさとそこから立ち去ればいい。だって、自分の人生の責任なんて他の誰もとってくれないよ。いざ死ぬってなった時に「もっとああしていればよかったなぁ」って思ったって、それを責めることができるのは自分自身しかいないのだよ。

 

そんなことを、今日は考えてた。