「はなすこと」についてのお話。

最近「相談」についてよく考えていて

ついでに「コミュニケーション」のことも考えていて。

      

私は何故かいつも気づくと周りの人の「相談」ばかり聞いていて、それは多分私が大して自分の事を話さないかわりに相手のことを聞いてしまうからなのだけど、聞いていて私が元気になる相談と、知らない間につかれてしまう相談があるなぁって思いました。

 

 

      

私が元気になる相談は、表面的な内容が多少ネガティブであっても前に進もうとしてる人が自分いがいの人のほんのちょっとの後押しが必要で私のもとに来る時。それがたとえ迷いでも、辛そうにしていても、最終的にはとてもポジティブで、その一生懸命さに私は心をうたれるし私も頑張ろうって元気になれる。

      

 

疲れてしまうのは、とりあえず話を聞いて自分の言ってることをみとめて欲しいだけの人。それから、自分の自己顕示欲や自信を保つために(自分で行動や努力をするかわりに)他人の噂話や悪口をいう人(でも表面的には「私こまってるの」「辛いの」という顔をする)。こういう人たちは、自分を変えないし変えようとしないし、相手(他人、自分以外の何か)に責任転嫁して、自立してない人たち。多分、あっけらかんと「私の話を聞いて!!!!」「あなたの時間ちょうだい!」という感じでストレートに来ればこちらもストレートに「良いよ」「あとでね」「やだ」と返せるのだけれど、彼らは「自分が言った」という責任も持ちたくないからかなんとなく匂わせてきたりうまいこと自分に非がない様に立ち回るのかなあって思います。

 

       

     

もちろん誰だって人間だから、人との相性はあるし愚痴を言いたくなるときもある。自分を守って人に責任を押し付けたくなるときだってある。でもそういう時は、同じコミュニティ内の人じゃなくて、まったく別の場所にいる人に話すとかにするといいんじゃないかなぁと思います。誰かと相性が悪いのは、自分のせいでも相手のせいでもない。おいしいものでも食べ合わせが悪いとまずく感じちゃうのと同じで。人間だから、誰にだって弱い部分も汚い部分もある。それを我慢したり隠したりする必要はない。イライラしたり悩んでしまうのは、距離感が上手く取れないからで、その距離感を上手に取れるようにするために、いったん心の中にあるものを吐き出して整理することは大切なのだと思う。

      

 

 

      

私の知り合いに、某大企業の重役をつとめている方がいます。

 

anecteca.hatenablog.com

 

↑この方

 

その方とはひょんなきっかけで知り合って、大して特別でもなんでもない私を娘のように可愛がってくれ、日本に来る度にごはんに連れてってくれます。彼は毎回おいしいごはんをごちそうしてくれるうえに、なんのやましい下心もなしにただ純粋に私に接してくれて「どうしてこの人はこんな事までしてくれるんだろう?」と思っていたの。でも何回か会ううちに理由がなんとなく分かってきた。それは、このおじさんは自分の会社でも家族でもない人(自分の属するコミュニティ外の人)に自分の話をしたいのだろうなぁと言う事。責任感がとても強くて、世界中を飛び回るような大変な仕事をしていて、おまけに奥さんは全身麻痺の病気で会話もろくにできません。子どもが二人いてどちらもまだ小学生で、1人で会社も家族もひっぱっていってるような人。でもとてもお話好きで気のいいふつうのおじさんでもある。とても人思いで相手に対する思いやりがある人だからこそ、自分のコミュニティ内にいる人には話せない事がたくさんあるんだろうなぁって思った。私は人を肩書きとかスペックで特別扱いできないから普通に「ふつうのおじさん」として話してるのだけど、彼にとってはそれが逆に心地よかったのかもしれない。だからね、「申し訳ないなぁ」という思いは捨てて、これからは思いやりの気持ちと一緒にたっぷり話を聞こうじゃないか、という心持ちで会うのが一番だなぁと思った次第。

      

      

 

人と話していて最近よく思うのは、目の前にいるあいてにきちんと意識が向いている人って実はほとんどいないんだなぁっていうこと。「わかるわかる」といいながら話を聞いてはいるけれど、本当はその人の会話の中に自分の話したいこと言いたいことのきっかけを探しているだけで、それ以外のことは無視しちゃっていたり。あるいは、話を振られたら答えるけれど同じように相手を知るための質問や会話をしようとはしない人。あるいは、相手の外側(スペックや見た目など)だけで判断してしまってその先にあるものを見る前から相手をジャッジしてしまう人。

自分の話をしたいとか自分を受け入れてもらいたいのは誰でも同じで自然なことだけど、相手のそれを受け取らないまま自分だけ受け取ってもらおうとしているというか。キャッチボールができてない。私が時々世間一般でいう「すごい人」に気に入られるのは、私がすごいからじゃなくて、多分私が普段ぼーっとしていてたくさん話さない代わりに相手の話はじっくり聞くからなのかもしれない。みんな本当は話をちゃんと聞いてほしいだけなのかもしれない。

      

      

 

  

 

それから、考えたこと。

 

やさしい人って、悪口を言わない人じゃない。

その悪口を、本人の耳に入らないように(あるいは本人が聞いても傷つかない様に)きちんと配慮できる余裕のある人なのかもしれない。愚痴でありながらも、それは根底は自分自身の問題であるとわかっていて、相手への尊敬・尊重の気持ちを忘れないでいられる人なのかもしれない。それは、「自分自身が相手に対してもつ価値観や評価は、その人自身の存在価値を否定するものであってはならない」「自分が個人的には嫌いだとしても、その人には価値があるしいたずらに傷つけてはいけない」って思えるかどうかかなぁって思います。

       

       

私はみんなに愛想を振りまいたり明るく振舞ったりすることは苦手だし、それで損している部分も本当にたくさんあると思うけれども、それでも私らしく、出来ることはやりたいなぁって思います。苦手な人、合わない人はもちろんいるけれどそんな人たちもいてこそ世界は成り立ってるって思える人でありたい(どんな人も適材適所です、多分)

     

      

   

 

前にある知り合いの人がいってくれた言葉。

     

「Aさんは誰にでもフレンドリーに話しかけて一見コミュ力ありそうにみえて、メイさんは大人しそうに見えるけど実はメイさんの方がコミュ力ありますよね」

        

ここでのAさんに対する評価はどうであれ、見てくれている人はちゃんと見てくれているということ。AさんはAさんの役割があって、それは私とはまた別なのだろうということ。そしてそれをこの人はちゃんと見ていてくれたということ。

      

   

      

私自身の話をすると、数は少なくっても、お互いがお互いのことをちゃんと見て、受け取りあい与え合いのコミュニケーションが取れる人たちを大切にしていきたいなぁと思います。まずは自分が幸せにならないと周りの人たちも幸せにはできないから、できないことはできないできっと良いし、私のできる部分はきっと「数は少なくても人のことをちゃんと見ることができる」ってところなのかもしれません。

 

 

 

 

終わり。