栄養を摂ること。

最近、新しいアイディアとかイメージとかビジョンとか、そういうものが前よりも思い浮かばなくなった…気がする。

 

 

「社会人として普通に生きていくこと」にここ一年ほどずっと挑戦し続けていて、それがやっと板についてきなかな?という頃なのでこれはしかるべき副作用なのかもしれません。

 

 

私の元々の「文章過多」がラッキーなことに今の仕事では功を奏して、どんどん「書いて」「書いて」って言われるようになった。周りの人たちが言葉にしたくても出来ないことを絶妙に表現するとか、かゆいところに手が届く感覚を覚えたからだろうと思います。

 

最初は私にとっては新しい環境すべてが「学び」であって、たくさんの受け取る情報があって、その自然な反応として、何も考えなくても言葉は出てきた。

 

でも、環境自体には慣れてきてしまうと、自分のなかで熟成させて混ぜ混ぜして新しい形にしていくための材料を見つけることが出来なくて、出てくるものがどうしても「サラダ」みたいな、そんなものばかりになってしまう。

 

 

サラッと楽しめるかもしれないけど、人の心に爪痕を残すようなものは書けない。じっくり煮込んだシチューとか、ぎっしり濃厚なブラウニーとか、食べたらずっしりくるようなもの。

 

もしかしたら「仕事」をするということにおいては、これくらいの方が良いのかもしれません。生きやすいのかも。

 

それが、いわゆる「安定」ということなのかもしれない。

 

 

多分、なんとなくだけど、納得いっていないのは他でもない自分自身なんだろうなって思う。それ以外の問題はきっと大してない。少なくとも、他の人には見えない。見えなくても、感じてる。

 

 

美辞麗句を並べ立てたような、甘ったるいだけの重みのないケーキでもなく、化学調味料たっぷりのカレーライスでもなくて、食べたいのはリンゴを丸々つかったアップルパイとかバナナケーキ、キャロットケーキ…とろとろになるまで煮たブロッコリーにほんの少しのバターとミルクを足して作ったポタージュ。

 

 

栄養のあるものが食べたいです。

 

 

そんな感じの気分。

 

そろそろ山篭り生活に戻る時期。

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やりたいことは全て仕事で叶える

私は海外に住んでた経験などもあるからか

よく「旅行好きなんですか?」と聞かれたりします。

 

でも私、実は旅行にまったく興味がない。

 

たまに今の場所ではないところに行きたいな、と思うことはあるけれど、それは頭の中でバーチャル旅行するだけで満足で、あとは出張や学会出席で遠出した時についでに見られたら儲けもん、くらいに思ってる。

 

 

若い頃ってこれだ!っていうスキルがまだなくても、仕事でとってもらえたりします。ある程度どんな分野でも。だから、大学の頃から私は「これに興味があるな」って思ったらそれが働きながら学べそうなところを探してバイトするって事をやっていました。

 

結果、ただ遊びや趣味でやるよりも何倍も自分の実になったし忘れられない思い出にもなった気がします。

 

仕事とプライベートを分けて、プライベートで充実!という言葉をよく聞くけれど、多分私はそれができないんだと最近になってようやく気がつきました。仕事も趣味も、どんなことでも自分の好きなことしか出来ない。

 

そして趣味と思って余暇をつかってやっていること、会っている人も結局は仕事に全部繋がってる。

 

私はいままで「自分の好きな事は仕事にならない」という思い込みがあったから、仕事したくないって考えてしまってた。でもよくよく考えてみると、私はがっつり仕事人間なのでした。 

 

ちなみに「仕事」というと、会社に勤めて働くことだけを思い浮かべてしまいがちだけど、私にとっては日々の家事労働や人間関係、結婚や出産、子育ても全て仕事と思ってる。

 

「やりたくないのにやらなくちゃいけないこと」と思っている訳ではなくて、ある程度のスキルや知識をもって、責任を持って取り組むこと、という意味合い。

 

家事労働などにはたしかに賃金は発生しないけど、自分のお金や時間を動かす行為だということに変わりはない。お金のことに関して言えば、お金を生み出す労働か、それを守る労働か、という違いだと思います。

 

 

どうしてこんな事を書いているかというと、ふと「成長しないってことは、結局は退化になってしまうんだよな」ということ。なんの成長もなく、ただ自分に出来ることの範囲内の事をやって、2〜3年前の自分と今の自分は変わってないって思うのは、ものすごくやばいことなのでは?と思ったの。

 

2年も経てば人は別人のように変わってしまうものだと私は思ってます。もともとの素質は多分変わらない。でもやっていることや考えていること、得てきたものは昔とは比べものにならないくらいレベルも量もアップしていると思う。それが普通なのだと思う。

 

インフラのために時代とともにお金の価値は少しずつ下がってく。だから増える貯蓄をしないと価値を維持することはできない…。人の成長も同じことなのではないかと感じます。

 

今の私はまだ、色んなことを学んだり経験したりすることを許されている。でも、あと2〜3年のうちにきっと、そんなことを言っていられなくなる。それに、きっと自分のことよりも自分の子供や下の世代の人たちに与えていくことが中心になるから、自分の成長のために自分だけに向き合えるのって今が最後かもって思ってます。

 

だから残りの時間を出来るだけ有意義に、使っていけたらいいなと思います。

 

 

終わり。

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自分が自分になって行くということ

それは、私の場合。

 

私、とても思い込みが激しい人間です。

というか、誰彼構わず人の言ったことを100%そのまま信じてしまったりする。頭では「ほんとかな?」と思いながらも、本当じゃない確証が得られないときはやっぱりどこかで信じてしまってる。

 

だから根拠のないことを自信満々に言う人とか、なぜか信じてしまうのです。(この性質は時々とても危険だなって思います。)

 

 

どうしてこんな事を考えているのかというと、先日会った友達に「あれ、髪型変えたね。どうしたの?」と言われて「あれ?どうしてだろう?」と思ってしまった事があったから。髪を切るにいたったのは、特に考えなしに会社の人に「髪切りたいんですけど、どんなのが似合いますかね?」と言ったのが発端。彼女は元美容師なので、なんと私のために大量のヘアスタイルの画像をあつめて送ってくれたんです。

 

さらに、その話を社内の他の人たちにもしたら、上司が「あなたはショートの方が絶対似合うよ」と。この根拠のない「絶対」は、私が信じてしまう悪魔のワードナンバーワン。笑

 

次の週には美容院予約して髪切ってました。

 

結局、彼らが言った通りにしてもあんまり似合わなかったから、現在進行形で似合う髪型模索中です。

 

 

今日も、ふとしたきっかけで父親のことを考えてました。私は父親のことがあまり好きではありません。というか、そう思い込んでいました。

 

でも、ふっと気付いてしまったんです。「あれ?私は父の何が嫌いなんだろ?」そう考えてみたら、あんまり思いつかなかったんです。というか、それまで私が「嫌い」って思っていた部分は、実は割とどうでもいいことかもしれないと思い至った。

確かに人間として理解できない部分もあるし、私のことを理解してくれてないとよく感じる。でも、それは違う人間だからある程度は当たり前だし、それでも父は父のやり方で私を想って接してくれていたな、と。

 

それで、どうして私は父を嫌いという思考回路になったんだろう?と思い巡らせてみたら、理由がひとつみつかりました。それは、小さなうちから繰り返し聞かされていた母の言葉。

 

母は過剰なほどにお互い理解しあいたいと思う価値観の人間です。そして父はそれとは対照的に、人に理解を示すことを全くしない。価値観があまりにも違うので、母は父の愚痴をよく言っていました。そして私は母の言葉をそのまま鵜呑みにしてしまった。

 

きっと当時の母のなかでは本当に父は嫌うべき人間だったのでしょう。 (一応言っておくと、両親は今も夫婦関係はわりとうまくいってます。ご安心を) でも私の中では父は特段そんな風な人間ではなかった。

 

それを、母と同じように思い込もうと「努力」してしまったのでした。母と同化するためには、父を嫌う必要があると思ったのでしょう。

 

 

私は近くにいる人と完全同一になろうとしてしまうクセがあります。

 

まるで、目の前にいるポケモンに変身するメタモンのようです。

 

ただ、その同化はいつも上手くいかず、私の私らしさをさらに強調して終わることが多いですが。

 

私はヒステリックなまでに、目の前にいる他人のことを理解しようとしてしまう傾向があります。そしてそれは、母の性質と同じ。

 

もしかしたら私は今まで、私ではなくて母の一部を生きていたのかもしれません。

 

母親と離れて暮らす年月が重なるほどに、私は本来、母とはまったく性質の違う人間だなと実感します。最近では、「たまに会うくらいが一番だな」と思うほど。

 

これがきっと正常な親離れと呼ぶものなのかもしれません。

 

私の、近くにいる人と同化してしまう性質はきっとこれからも変わらないのだと思います。

ただ、これからはきっと自分でその環境や人を選んで行くことができる。

 

そういう「どこ」「だれ」を選ぶかに、きっと他ならぬ自分らしさが現れてゆくのだろうなと思います。

 

私は子どもの頃からずっと膨大な量の本を読むような、本の虫でした。それは今でもそう。

そして、それに加えてかなりの実践家でもありました。なんでも試してみたくなる。そして楽しいと思えることは、とことん追究する。

 

私という存在は、もともととても透明で、とりあえず一番近くにいた母親を吸収し、いったんそれを自分と思ってた。しかしそこからたくさんの知見を得ることで、新たな色が加わり始めた。

 

今まで、自分が分からなすぎてもがきながらもたくさんのことを詰め込み、実践し、消化してきたからこそ、今の私は私という存在としているのだろうなと思いました。

 

これからどういう場所で、誰と生きていきたいか。

 

将来のことを考えると不安になることもあります。こういう性質のせいで、対人関係での不安も常にどこかには存在してる。

 

 

だから、自分自身のために、不安になった時の判断の基準として、「私はこの人のこと吸収したいかな?自分の中に取り入れたいかな?」と問い直すことを大切にしようと思います。

 

美味しくなさそうなものや自分の栄養にはならなそうなものを食べないのと一緒で、なんとなく嫌だなっていうものは食べない。美味しそうだけど身体に毒すぎるものも食べない。

 

 

そうやって選べるだけの目を養うことが、「大人になる」ということなのかもしれません。

 

 

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